小説なり詩をある理論や思想でぶちぶちすることにはどれほどの意味があるのか、と思う。勿論文化的社会的な条件のもとに書かれなかった作品は無いのだから、既存の論理の力に借りることによって作品に近づくのは重要な手段でもあるのだけどそこには慎みが求められる。作品は生きた構造物であり、単一の解釈に回収してしまうのでは必ず割りきれない部分が出てくる。(ついでに言えばそのようにして回収されてしまう作品は間違いなく屑だ。)
人間が虚構を作り出すとき、そこにはある「切実さ」が抱え込まれるような気がする。(付言しておくとその「切実さ」といのは辛い思いをして書いたといった類の作品外的な事実に依拠するものではない。) 作品をある論理なり、解釈に帰属させてしまうことは作者と作品の間のあえかなる皮膜を裏切ってしまうことになるだろう。いかにして作品の複層的な声を響かせるか。


なんてことを考えながらシュルツに関するレジュメを作ってました。父ヤクブが活躍する作品も好きですが、「牧羊神」や「カロル叔父」といった日常に非日常がさ迷いこんではすっと去っていくような佳品も好きです。そして非日常から日常に醒める瞬間−時には失望を伴って−を描くのがシュルツ作品のひとつの要諦だと思う。